1.中国大陸へ1928年~1947年

創業者、加藤一は1928年1月7日、父京次郎、母すぎの四男六女の第四子として、
愛知県東春日井郡水野村(現瀬戸市)に生まれた。

  創業者 加藤一

社長は昭和3年1月7日、愛知県瀬戸市のお生まれですが、お父さんが瀬戸物の絵描き師であったとお聞きしています。

私の祖父は岩村藩の下級武士の次男坊出身です。次男のため子供の頃に内藤藩に養子に行きました。内藤藩では柔の指南です。ところが廃藩置県となったので、祖母の在所を頼って瀬戸に来て、その後ずっと、瀬戸警察の柔道の指南をやっていました。とにかく有名でした。私の父はその末っ子です。
その父が母親と結婚する前に、陶器の絵描きをしていた従兄弟を頼って京都に行き、清水焼の絵の修業をしました。そして京都で一人前になって瀬戸に戻ってきた。腕前は相当なものだったそうです。近所の人も何かと父を頼ってきた。父が死んだ時、当時としては随分多くの人が葬式に参列したそうです。後で兄貴が、この中の大部分の人はうちで借金したまま返してない人たちだ、と言っていました。葬式くらい出ないと悪いからと集まったそうです。子供は私たち10人を育てました。貧乏して育ちましたから、貧乏なんて本当に何ともなかった。

1942年、水野国民学校高等科を卒業した一は、14歳で満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社した。この年、日本はすでに太平洋戦争に突入しており、満鉄の社員募集もこの年が最後であった。

昭和17年、14歳のとき小学校高等科を卒業され、満鉄に入社された。

そうです。昭和17年でした。卒業する前に瀬戸の職安から学校に、満鉄社員の募集があったのです。先生からそれを聞いて家に帰って、すぐ父に相談したのです。満鉄に行ってもいいかって。
すると父は一言「よし」と言ってくれました。それで応募したのです。成績は特にいいわけでもなく、全く普通の子供でしたが合格したのです。驚いたことは、合格通知と一緒に家が一軒買えるくらいの支度金が送られてきたことです。大学卒の月給が30円、50円の時代に何百円というお金でした。結局、瀬戸からは私一人でした、満鉄に入ったのは。他の親は子供が中国・満州まで行くことがかわいそうで、許さなかったのではないか。

満鉄に入ってから、随分、勉強が好きになったとお聞きしましたが。

最初は教習所というか訓練所というか、そういうところに入りました。14歳の人間が仕事ができるわけがありません。団体生活の訓練をしながら勉強させるのです。朝の7時から起こされ点呼、夜も7時に点呼でした。
しかし、外はまだものすごく明るかった。6月の一番日が長い季節には、夜の10時になっても新聞が読めました。
英語は禁止です。一番力をいれたのが物理と数学、それに電気工学。物理や数学は旧制中学並に勉強しました。ここでユニークだったのは、全員が理解するまで授業が行なわれたことでした。一番できの悪い生徒に合わせるのです。ですから私でも勉強がよくわかるのです。不思議なもので、わかると好きになるんですね、勉強が。もっともっと勉強したくて、ハルピンの本屋に通うようになったのです

ハルピンの本屋といってもちょっと想像がつかないのですが。

ハルピンは当時、北満最大の都市です。いろいろな民族がいて国際色豊かでした。地段街という繁華街には大きなデパートがあって、日曜日になると大変賑わっていました。本屋も4軒ほどありました。日本人が経営する70坪くらいの大きな本屋では、天井まで本が積んでありました。梯子が2、3本用意してあったのにはびっくりしました。在庫は今でいえば、坪120万円はあったでしょうか。勿論、和書ばかりです。兵隊向けの本が大半ですが、雑誌や小説もありました。輸送の関係で殆ど買い切りだったと思います。でも定価で買えた。ここではどんな本を買おうが自由です。月20円は本を買ったと思います。満鉄の給料が外地手当てをいれて72円だったから、誰よりも多く買ったと思います。
猛烈に勉強したおかげで、1年後には成績がトップになりました。勉強でトップになるなんて考えられなかった。しかし、好きだとトップになれるのですね。不思議です。

その後、実際の仕事に就いていろいろ経験されたと思いますが。

ある時、電線敷設のために随分山奥まで行ったことがありました。宿泊は、日本から来た満州開拓団の一家でした。ところがその一家の主人は朝から酒を飲んでいて、いっこうに仕事をする気がありません。不思議に思って、いつ仕事をするのか聞いてみました。すると、自分は働いていない。全部小作人にやらしている、という返事でした。小作人というのは中国人です。開拓団といいながら要するに土地強奪をしていたのです、日本人は。小学生の頃、開拓団に入りませんかというPR映画を何回も観た記憶がありますが、その内容とは全くかけ離れていました。日本人は中国でこんなことをしているのか。これはえらいことになる。そう思っていたら、半年も経たないうちに終戦になりました。日本人は皆殺しにあうのではないかと思いましたが、そうはなりませんでした。蒋介石が、仇は恩で返せ、と放送したのです。ここは中国人の立派なところです。日本人は敵わない。

終戦になって満鉄は社員をどうしたのですか。

終戦になると満鉄は不要な社員を解雇し始めました。幸いにも私とすぐ上の上司の二人はクビになりませんでした。不思議に思いました。仕事は一生懸命やりましたが特別な能力があったわけではありませんし、上司はものすごく短気で、いつも怒っていましたから。しかし、後でその理由を知りました。つまり、私と上司の二人は決して中国人を差別しなかったというのが理由でした。基準がこれだったのです。中国人を差別するなんて思ってもみませんでした。父も武士の家系ですが、昔からそんなことは一言も言ったことがありません。

その頃ですね、毛沢東率いる八路軍と出会ったのは。

蒋介石の国民党軍と毛沢東の八路軍はまだ大戦争をしていました。しかし、大勢の日本人を帰国させるという口実で3ヶ月間休戦しました。その間に日本に帰ろうとしました。八路軍の占領地を通過する時は八路軍が用意した列車に乗りました。それは雨風がしのげるように屋根のある貨車でした。これには随分助かりました。
しかし、国民党の占領下を通過するときは、今度は屋根がありません。無蓋車でした。確か季節は9月でした。とても寒かった。特に雨降りの日は大変でした。八路軍は親切で略奪なんかしませんでした。国民党軍や関東軍、ロシア軍とは全く違って規律というか統制がきちんとしていました。見事な軍隊でした。やはりその背景にある思想がそうさせたのでしょう。そうとしか思えません。

そして1946年10月に無事、日本に戻ることができた。

アメリカが急造したリバティ船という、3千トンか4千トンの船に乗って帰ってきました。食事は朝と晩だけでしたので、腹が減って腹が減って、話すのは昔食べたご馳走のことばかりでした。博多に着きました。検疫後すぐに上陸して列車に乗りこみました。コレラなどに罹っていなくて助かりました。検疫で引っかかると大変でしたから。確か東京まで行く列車でした。勿論、切符は要りません。腕章が切符替りです。列車に乗る前に100円を生活費や食費としてもらっていましたので、それを大事にもって帰りました。名古屋に着いてから堀川まで歩いて、それから瀬戸電で瀬戸に帰りました。帰ると兄が出てきて「どなたさんですか」と聞くのです。丸4年経っていますし、よほど人相が悪かったようです。しかし、おふくろはすぐ気がついたそうです、声で。半分あきらめていたようですが。

2.念願の本屋開業 1948年~1958年

名古屋の池下ではじめて本屋を開業されたのは昭和23年でした。

瀬 戸に帰って最初、しばらくブラブラしていました。しかし、いつまでもそういうわけにいきませんから、義兄の仕事を手伝うようになりました。名古屋で銭湯を 経営していたのです。そこで仕事しながら中学に通いました。その頃からでしょうか、自分も何か商売を始めようかと思ったのは。そしていろいろ土地を探しは じめました。千種区の池下にちょうど50坪ほどの土地がありました。その土地を買って商売を始めたのですが、店の殆どは陶器など雑貨を並べました。残りの 10坪ほどに本を並べてみようかと思いました。終戦直後でみんな活字に飢えている時でした。しかし、本屋を始めるには組合の株、営業権ですね、これを買う 必要があった。資金的に余裕がなかったので義兄に援助を頼みました。こうして本屋を始めたのです。屋号は「三洋堂書房」でした。

終戦後の物資不足で出版業界はひどい不況だったようですが。

終 戦後で国民は活字に飢えていました。粗悪紙であろうがなんであろうが、雑誌ならなんでも売れた時代です。サンデー毎日や週刊朝日などはあっという間に売切 れです。入っても入ってもすぐ売りきれでした。いつも売る商品がありませんでした。一方で、物資不足からくる用紙の高騰で出版業界はひどい不況で苦しんで いたようです。その後、取次会社も東販や日販などが新しく誕生しましたが、一向に配本は増えませんでした。仕方がないから現金を持って必至に取次を回った ものです。当時、川瀬書店が名古屋一の取次だったと思います。仕入れた本は自転車に積めるだけ積んで帰ってきました。1950年の朝鮮戦争まで続いたと思 います。私の上の兄が三洋堂書房に来たのもこの頃でした。

当時はどんな本がよく売れたのですか。

ど んな本でも売れた。並べればほとんど売れたのです。それくらいみんな本に飢えていた。週刊誌の中でも「週刊時事」が一番売れたと思います。小説も有力なも のはみんな週刊誌の連載ものでした。単行本になってベストセラーになる。お客さんはあら筋はみんな知っているのに、また買うのですね。週刊誌は5円くらい でした。朝鮮戦争が終わって、紙の生産が増えてからたくさんの本が発行されるようになった。10坪の店では全く足らなくなったのです

こ の頃、全国では新しく取次会社を設立する動きが活発化し、1949年には東京出版販売(トーハン)、日本出版販売、大阪屋、日本教科書販売(日教販)、中 央社などが生まれた。しかし、新しい取次ができても書店への配本が増えたわけではなかったので、商品を確保するために書店は必死であった。一も仕入に奔走 した。

その後、50坪全部を本屋にされた。

そ うです。10坪では全く何も並ばなかったからです。思いきって50坪全部、本屋にしました。昭和30年頃には愛知県の書店は600店くらいはあったと思い ますが、50坪というのは相当大きな本屋でした。店はちょうど広小路通りの市電の電停前という、いい立地でした。また池下には淑徳高校があってそこの学生 たちがたくさん来てくれました。とにかくよく売れました。

1955年、一はまさ子と結婚する。
ま さ子は1929年8月8日、筒井家の長女として大阪市港区に生まれた。地元小学校を卒業後、大阪府立市岡高等女学校に入学した。しかし、まさ子が2年生の 時、一家は激しくなった空襲を避けて、父佐久雄の実家に近い、愛知県幡豆郡吉良吉田町に疎開した。そして、県立西尾高等女学校に通った。
1947年、西尾高等女学校を卒業したまさ子は、父の実家の佐久島で教職に就き、そこで6年間教師をした後、叔母筒井清子の紹介で瀬戸市に移った。そしてそこで一と知り合い、結婚することになった。
翌1956年には、長女睦美が誕生。そして1957年には、長男宏が誕生した。