1.杁中三洋堂の創業 1959年~1965年

名古屋市の地下鉄工事の影響で、淑徳高校の移転話が出てきた。

びっくりしました。計画によると淑徳高校のそばを地下鉄が走る。だからその前に学校は移転しなければならなかった。学校が移転したら店の売上は激減する。困りました。この頃には私も専務と結婚していて、長女も生まれていました。私の家族と兄の家族がこれからも食っていけるかどうか、とても不安でした。

その時からですね、独立しようと思われたのは。

その頃、教科書も扱っていたし、外商もやっていた。だから配達であちこち回っていたので、学校の移転話が出た後は、機会があれば注意して土地を見ていました。昭和区あたりも配達の途中でよく通っていました。その頃から、杁中あたりは大学や学校がたくさんあって学生が多く、本屋にはもってこいの場所だと思っていました。八事にも本屋さんはなかったので、「ここならとにかく飯は食えそうだ」と思いました。とにかく食うことが一番の問題でした。 この辺をいろいろ探しました。その結果、納得できた場所が旧本部の所です。坪5万円でした。目玉が飛び出るほどの値段です。しかし、飯田街道沿いの電停前という特等地だったのです、ここは。兄の援助もあって思いきって買うことにしました。30坪、150万円です。こうしてまた本屋を始めました。

これが杁中三洋堂の創業ですね。

昭和34年1月4日でした。15坪の店です。平屋で横が家族の住まいでした。この時には長男の宏も生まれ、家族は4人でした。広いとか狭いとか言ってはおれません。一銭もお金がなかったからです。営業時間は確か朝9時から夜9時まで、日曜日などはまだアルバイトが雇えないので、専務と二人で一日中店番をしたものです。週刊誌1冊買われるお客様の顔が神様に見えました。そのくらい最初は売れませんでした。ですから外商も始めたのです。外商をするには学校などたくさんあってもってこいでした。しかし社員やアルバイトも雇わなければ、専務が洗濯する暇もない。子供の遊び場も本屋の中、三輪車を乗り回すのも本屋の中、そんな時代でした。

伊勢湾台風が東海地方を襲ったのは、この年の9月であった。昭和区の停電は2カ月にわたって続き、大学の授業はほとんどが休講になった。そして学生たちも被災地の救援活動に出かけて行ったので、店は大きな打撃を受けることになった
1960年に入ると、安保反対運動はますます激しくなったが、5月の国会での強行採決、6月の自然成立、そして岸内閣の総辞職などを経ると急速に鎮静化していった。そして、人々の関心はもっぱら高度経済成長による豊かな生活の実現へと移っていった。出版業界においてもコミックや漫画雑誌を中心に、団塊の世代を対象とした新しい企画や創刊が相次いだ。
2年目に入ると売上は、ようやく創業時の倍となり、それ以降は毎年二桁ずつ伸びていった。7月には次男和裕が生まれた。

日本福祉大学との関係もこの頃から始まりました。

日本福祉大学が一番近くて、学生も多かった。先生方には特に可愛がってもらいました。並べている本が社会科学系中心でしたから、特にそうでした。並べるべき基本図書などいろいろなことを教えてもらいました。配達に行くと、よくお茶を勧められました。そして仕事以外の話もたくさんしました。自分の将来の夢なども語った記憶があります。その後、福祉大学が移転する時に、わざわざ移転先に店を作ってくれとまで言われました。その話は結局、実現はしませんでしたが、しかし、大変有り難いことだと思いました。

ところが外商というのは結構、経費がかかって余り儲からないという話をお聞きしましたが。

開店2年目の頃には外商売上が全体の3割くらいでした。仕入代金は毎月きちんと払わなければならないのに、外商は売上代金の回収がどうしても遅れます。ですから資金繰りがきつくなる。また配達経費が随分かかります。 支払いは100%きちんと払うのが商売の原則と私は考えていましたから、その原則を守るために子供名義の通帳から何回、お金をおろしたかわかりません

2.店舗拡張と男子社員の採用 1966年~1971年

書店の正味(マージン)は、出版社と取次会社が決めた率に従うのが長い間の商習慣であった。しかし、戦後のインフレを契機に、書店組合を中心とした正味引き下げ運動が起こった結果、正味は徐々に改善されていった。そして1969年には定価別正味制が導入され、更に引き下げられることになった。

しかし、努力の甲斐があって荒利益率も売上も順調に伸びていきました。

確かに経費節減というか、ロスや無駄な経費には随分厳しく対処しました。いつでしたか、荒利益率を16%出したときがありましたが、その時税務署の人が、お宅は立派だと誉めてくれたことがありました。当時、書店で最終的に16%の荒利を確保するのは大変な時代でした。そして、ちょっと油断するとすぐ数字が悪くなる。その後、書店マージンも少しずつ改善されてきて、だんだんと荒利も上がってきました。
ところが開店して7年目、1966年でしたか、店から1キロも離れていない所に突然、本屋が現われたのです

最初の競合店ですね。

大きさはうちより小さかった。たった8坪でした。それなのに、これまで毎年二桁の勢いで伸び続けてきた売上がパッタリ止まってしまったのです。売上増加分が食われてしまった勘定です。これにはびっくりしました。もっと大きい店だったらと思うと、正直なところぞっとしました。競合の怖さをはじめて知りました。これでは将来、問題だと思って、店を大きくしたいと考えるようになりました。
これまでは競合対策なんて考えたこともなかった。組合の力が強かったからそれで出店が押さえられていたことも原因です。しかし、スタンド販売的な小規模店はアウトサイダー的に増加していた。そうした勢力も一方ではあったのです。ところがどの本屋もまともに対策を考えようとはしなかったのです。一生懸命やっておればなんとかなるだろうと思っていたのです。うちぐらいでした。まともに増築や移転を考えていたのは。
実際、一生懸命やりましょうでは解決できる話ではありません。手持ちの財産と資力でどんな手が打てるかが問題でした。とにかく大きな店を作る必要があった。

最初に店を建て替えた時に中川工務店の社長と出会ったのですね。

15坪から30坪へと2倍に広げることで設計にとりかかった。設計を依頼していた建築会社の大手下請けに中川工務店という会社がありました。そこの社長が中川武一さんです。30坪でも不安でしたので私は中川社長に相談してみました。これが最初の出会いだったと思います。その時社長に勧められたのです。どうせまたいつか大きくしたいと思う時がくるだろうから、今のうちにもっと大きな、4階建てくらいを作っておいてはどうですかと。長い目で見れば経費的にも安くつく。私と専務は中川社長の勧めに従いました。
こうして一挙に54坪の店にしました。中川の社長との付き合いはその後、ずっと続きました。なにか不安であったりわからないことがあったり、迷ったときは必ず相談しました。そしてそのアドバイスはいつも正鵠を射ていました。同世代ということもあったのでしょう。親しくしてもらいました。

1、2階合わせて54坪に増床しました。

1階が30坪、2階が20数坪ありましたが、最初は1階30坪だけを店舗にし、2階はいつでも売場にできるように倉庫にしました。3、4階が住まいや物置です。うれしかったですね。15坪から2倍の30坪に広げた時は。自分の好きなものが並べられる。 ところがまたすぐ競合店ができたのです。建て替えたすぐ翌年、街道を挟んだすぐ向いです。大きさは20坪。規模ではまだこちらが勝っているがやはり不安でした。ですから思いきって2階も売場にすることにしました。こんなに早く2階も売場にする必要がでてくるとは。 これで1、2階合わせて54坪になりました。当時、書店の平均売場面積が5坪から10坪でしたから、54坪というのは随分大きな規模です。正直、もうこれで一生食っていけると思いました。

1、2階はどのような売場構成にしたのですか。

1階だけの時は30坪あったといっても、社会科学系の専門書をある程度並べるには十分ではありませんでした。雑誌や文庫などのスペースも必要でしたから。そこで、2階ができたときは学参を全部2階に並べ、1階には社会科学系の専門書のスペースを思いきって広げました。夢のようでした。こんなに専門書が並べられるようになって。

この頃はちょうど70年安保の時代でした。

創業した時が60年安保。そして60年代後半から70年代にかけては日本は激動の時代でした。一方で経済成長の道をひた走りながら、一方ではベトナム戦争、沖縄、安保など政治社会情勢は緊迫していました。国会周辺でも各地の大学でも、デモやストライキは当たり前でした。みんな日本の将来について関心を持っていた。学生も必死になって勉強していた時代です。社会科学系専門書、特に社会主義、共産主義などマルクス主義関係は必読でした。学生の多いこの地区では特に重要でした。
ですから1階にはそうした専門書をたくさん並べました。「共産党宣言」「空想から科学へ」「賃労働と資本」などマルクス主義の基本図書は平積みです。青木書店、岩波書店、大月書店などの文庫が中心でした。 こんな本、他所では絶対に並べていませんから、口コミで広がって、遠くからも学生たちがうちに買いにきました。人文系出版社からも注目されるようになりました。 文庫についていうと、岩波文庫は原本に非常に忠実な訳、直訳に近かった。忠実という面では一番です。しかし、読む側にとっては、意訳でもいいからもう少し読みやすい、わかりやすいものが必要でした。その点では大月文庫のほうが人気がありました。岩波書店の関谷さんやみすず書房の関口さん、青木書店の山根さん、古川さんなど多くの方々にお世話になりました。出版社さんの協力がなかったらこんな店はできませんでした。

創業時600万円しかなかった年商は、この頃になると3500万円となり、経営もようやく軌道に乗りはじめた。売上の増大に伴なって、商品量も作業量も増大していった。自分たち二人と女子社員、アルバイトだけで店を回していくことはほとんどできなくなっていた。仕入にも配達にも行かなければならない。どうしても男子社員が必要であった。
まさ子の郷里佐久島の出身で、今度、高校を卒業する予定の男子生徒から入社希望があったのはこの頃である。早速、この生徒を採用することにした。この生徒が初の男子社員となる高橋敏男氏(現ブックスティーエス社長)であった。
その後1970年に入社した河村和正氏(現サンヨー妻木書店社長)は、高橋敏男氏の高校の後輩、1973年に入社した筒井正博氏(現サンヨー渥美書店社長)は佐久島の出身であった。

3.初めての支店出店と人文専門書店の誕生 1972年~1974年

こうした実績と社長の熱意がその後の東店、いりなか店につながって行ったのですね。

熱意というと恥ずかしいが、当時、そんな共産党びいきの本を並べている本屋はなかったからお客さんも来てくれたのでしょう。もちろん15坪の頃からこうした本には力を入れてきました。それが認められたと思います。
確か青木書店の山根社長でしたか、初めて15坪の店にいらっしゃったのは。菓子折りを持ってわざわざ挨拶にみえました。販売スリップを送った記憶はあるが、それが何枚になっているかなんてまったく知りませんでしたが、とにかく大変な量を販売していたのは事実です。それもベストセラーではない地味なロングセラーだけを。さっき言った基本図書は何万冊も販売したと思います。 
110坪の東店を作る時です。ここも大半が専門書でしたので、出版社さんに商品の協力をお願いしました。随分な在庫ですから、金額も相当なものになります。即請求では潰れてしまいます。ですから、出荷条件が重要でした。山根さんの紹介で人文会の会合に出席させてもらい、そこで出荷条件を取っていただきました。破格の条件です。開店が11月でしたから、支払いは翌年の新学期が終わった6月でいいということでした。これならなんとかなる。本当に嬉しかったですね。有斐閣の村井さんからもたくさん商品を送ってもらいました。300坪のいりなか店の時も同様でした。

1972年になると年商は1億円を突破した。それとともに社員の数も増えた。正直言ってこの10年間は、自分たちのことで精一杯であった。しかし、これからはこうした社員の将来のことも考えなければならない。
社員が将来、独立するにしても、会社に残るにしても、会社がつぶれたり、左前になってしまってはいけない。まず誰もが安心して働ける会社にする必要があった。そのためにも競争に負けない強い体質を早く作ることが重要である。
二人は猛烈に勉強を始めた。日販主催の勉強会はもとより、外部のセミナーにも積極的に参加した。また中川社長の考え方にも素直に耳を傾けた。本もたくさん読んだ。そして、支店出店を本格的に考えはじめた。
そして選んだのが、愛知県春日井市の勝川駅前にある元資材屋の物件であった。JR中央線の勝川駅から徒歩2分、国道19号線沿いの角地で、広さは約70坪とちょうどよかった。しかし何しろ初めての支店出店であるから、日販の経営相談室に相談してみることにした。担当の屋代武氏がすぐに現地を調査し、その結果ここならいけると判断した。
こうして一はここを買うことにした。しかし、蓄えはこれで吹っ飛んでしまう。果たして売れるだろうか。一とまさ子にとっては眠れない日が続いた。
1974年2月16日、勝川店が開店した支店1号店である。開店と同時に店は大勢のお客様で一杯となり、その後も順調に売れていき、心配は杞憂に終わった。初めての支店出店は大成功であった。

東京や大阪などの大都市では、数年前から大型店が積極的に出店しており、1973年夏には、東京・八重洲口に2千坪の書店ができるという噂も流れていた。名古屋市内でも、この頃、紀伊国屋書店の出店が取り沙汰されていた。
大手総合書店の出店となれば、市内の書店への影響は免れないため、書店組合は出店反対運動を始めた。しかし、一はそうした大手書店が出店してもそれに対抗する方法はないかを一生懸命考えていた。出店反対運動をしても何の意味もないからである。
いずれにしても、54坪の今の三洋堂では到底、敵わない。対抗するためには売場をもっと大きくし、特色ある品揃えをすることが必要であった。
そこで一が考えたのは、大型人文専門書店を作ることであった。人文書の品揃えならどこにも負けない自信があったし、出版社の協力も得られるに違いない。
こうと決めたらじっとしておれない一である。まさ子に内緒で土地を探しはじめた。店から東へ100メートルほど離れたところに120坪の土地があった。広さも、立地も、もってこいである。一は手付け金1000万円をすぐに払ってしまった。びっくりしたのはまさ子である。勝川店を出店したばかりで台所は火の車である。万一失敗したらどうするのだ。しかし、手付け金は払ってしまった。再びまさ子にとって眠れない日が続いた。こうして出店したのが東店であった。

その東店が売れ始めた。

ここは土地の値段が高かった。坪65万円ぐらいで、杁中で一番高い値段だった。周りの人からいつも文句を言われました。「三洋堂さんが相場を上げてしまう」と。しかし、問題は、土地が高いか安いかではなく、そこで経営が成り立つかどうかです。正味100坪の東店を4年でクロにすることができたのは、初年度、坪3800円しか売れなかったのが、2年目には5500円、3年目には8000円、そして4年目には1万円と急速に売れたからです。坪1万円も売れると、今度は店が混み過ぎてお客様に不親切な店になってしまいます。この店も午後3時頃から5時半まではごった返していました。学校の帰りです。これはいけない、なんとかしなければと思ったのです。

それでこの店も大きくしようと思われたのですね。

そうです。それで300坪のいりなか店を作ろうと思いました。当時の大店法では、半径1キロの小売業から反対がでなければいいということだった。それ以外はなにもなかった。だから、頭を下げて全部回わり、判もついてもらいました。反対がないはずはないと、市役所があとから言ってきましたが、実際、だれも反対はなかったのです。確かこの頃でした、名古屋駅に三省堂さんが300坪ぐらいで出られたのは。あとは大きい書店は丸善さんと正文館さんでした。

東店出店の前に支店1号店の勝川店を出店されまたが、そこからですね積極的に出店が始まったのは。

あの時は苦しかった。しかし、出店をしなければ社員の将来も三洋堂の将来もないと思っていました。みんなよくついてきてくれたと思います。東店を出したのは昭和49年11月。その前の2月に勝川店を出しました。もともと建材屋で、それが競売にかけられていた。手持ちの資金は全部、ここで使ってしまい、一銭もなくなりました。改装して奥まで全部売場にし、駐輪場も作って増築したのはもっと後です。とにかくこの店はよく売れました。おかげでその後、東店のような偏った店を作り、最初全く売れなくても、勝川の売上で何とか息がつけた。この頃が一番苦しかったと思います。坪売上3800円では食って行けない。5000円あれば何とかなった。とにかく勝川店が売れたおかげで、あとの出店が楽になり、見通しも立ちました。

会社の経営についていろいろ考えはじめられたのは、こうした支店出店からですね。

私は人から命令されてやる仕事は大嫌いでした。自分でやったほうがよっぽど効率がいいと思っています。ですから、支店を出しても、悪く言えばほったらかしでした。社員にみんなお任せです。私が今でも感謝していることは、悪いことをする社員が一人もいなかったということです。だから支店経営でやってこられた。利益も随分出た。しかし、資本主義社会ですから利益全部を分けてしまったら、会社は駄目になってしまいます。だから3分の2は会社に蓄えなければ将来がない。こうしたことを社員にもはっきり話し、経営の中身がすべてわかるように公開しないといけないと思いました。そうすれば労働運動や組合など要りません。一時、書店にも労働組合ができたことがありますが、その時、何故三洋堂ではできないのかと、業界でものすごく話題になったことがありました。うちはすべてを公開しているから、いいも悪いも全部社員が納得していたのです。 売上が10億円ぐらいの時、経営の仕方を聞きに北海道まで行ったことがあります。そのとき聞きに行った書店さんのほうがうちより大きかった。その後何年か経って、東京かどこかでその書店さんに会った時、やっとうちも30億円売れるようになりましたと挨拶したら、びっくりされていました。いつの間に倍になったんだと。右だ左だという前に、まずこの資本主義社会で生き残って行くことが重要だと私は考えました。

4.全国初の郊外型書店出店 1975年~1977年

東店を開店してちょうど1年後、1975年の11月に今度はあの東郷店を出店されました。

東郷店は全国で初めての郊外店といわれているが、そんな意識はまったくありませんでした。減反政策で半分水につかった田圃以外何にもない場所で、東郷高校の生徒が夏も冬もじっと我慢してバスを待っていた。それを見て可哀想に思ったのでしょう。土地を安く提供するから店を出してくれないかと、そこの地主さんたちが何度も何度も頭を下げに見えたのです。全く売れそうにない場所でしたが、熱意に負けました。生徒が一冊も買わなくても文句は言わないという条件でした。 日販さんが見学にいらっしゃって、びっくり仰天されたのです。田圃の真中に店を作ったから。それで郊外型ということで広まってしまった。これが実情です。 
勿論、住宅もできるという話でしたが、オイルショックでそれも止まってしまった。実際に売れ始めたのは3年目からです。あとは年を追ってよく売れました。だからそう言われたのです。本当はもう少し坪数が欲しかった。売場は100坪以上で駐車場も30台以上はほしかった。自分が買いに行って駐車できなかったら困る。根拠はこれだけでした。店舗面積の半分が駐車台数というのが今では常識ですね。しかし、結局はビルのテナントに入らないで独立店にしてよかったと思います。どんないい商売でも10年以上も儲かる商売はない。頼りになるのは担保です。担保力をつけないと発展は考えられませんでした。 最初はもうみんな、心配するというよりあきれ返っていた。本当にこれで飯が食っていけるのかと。東店を作ったときも専門書ばかりで、コミックも実用書もなかったから。同業者の人が心配してくれた。

その後、高蔵寺を出し、1977年には刈谷店を出店された。刈谷店は駅前の絶好の立地でした。

当時はそう言われていた。今でも大阪や東京ならいい場所です、駅前立地は。しかし、完全な車社会になって、駅を利用するお客さんが年々減っていく時代になると、刈谷駅前辺りはいい場所ではなくなった。だから、ある程度の大きさがあるからお客様もまだ魅力を感じてきてくれるのです。あれが小さかったらもうアウトです。
ここも最初、お金がなかったので1階だけ注文した。すると、中川の社長がこう言ってくれたのです。「あんたとこはすぐぶっ壊して2階をつくる。しようがないからうちの金で2階まで作ってあげる。内装は後回しにして。2階分のお金はできたときでいい」中川の社長はこの店は売れると判断したのでしょう。とにかく、うちを買っていた。大店法の関係で2階もすぐ開店しました。この刈谷のおかげですね。300坪のいりなか店を出す時、理工書が出してもらえたのは。
刈谷店の社員もみんな、理工出版社からいろいろ教えてもらって一人前になっていった。文系出身とか理系出身なんて関係なかった。日科技連の田中さんにはみんな世話になったと思う。

金融機関から初めて融資を受けたのもこの頃でした。

あの当時はまだ借金することを知らなかった。東店を出す時も、売上をためてそれで1千万円の手付けを払った。銀行とは取引は一切なし。みんな手持ち資金です。当時、日販名古屋支店の金子支店長に、もう一銭もないが面倒見てもらえないか、と頼み込みました。すると、100%支払いを条件に面倒をみてもらえることになった。あれは本当に有り難かった。 その後ですね、豊信さんから融資が受けられたのは。理事になられた田端さんが、当時、三好支店次長の時でした。利子も安く、担保は杁中の土地と建物でいいということでした。おかげで借金も約束より早く返すことができました。田端次長はとても本屋に興味を持たれ、私が行くたびに応接室に呼んで、本屋のことをいろいろ聞かれたことを覚えています。