1.三洋堂書店、一二三会設立の頃 1978年~1980年

三好彰さんは1976年に初の大卒として入社され、現在、取締役商品部長にお就きですが、まず、1978年の杁中三洋堂と三洋堂書店との分離の頃の話をお聞かせください。

私が入社したときから一社長は株式の公開ということを言い続けておられました。「社員が資本主義社会で合法的に財産をつくるには、株式の公開しかない。社員の億万長者をつくるんだ」と。そしてその第一歩として、従業員持株会(一二三会)を発足させました。一二三会というネ-ミングは社内公募して、榊原孝くんが一社長の「一」と三洋堂の「三」で、みんなで一、二、三とがんばろうと言って「一二三会」に決まりました。 一社長は夢を語る人でした。「夢は大きいほどいい。電柱ほどの夢をみてつまようじほど夢が実現される。つまようじほどの夢だとなにも実現しない」社長の口癖でした。

一二三会の初代理事長は三好さんですね。

ええ、一社長が中川工務店の中川武一社長から従業員持株会のことをお聞きになって、なんとか三洋堂でもつくろうと、税理士の渡辺先生が税務・規約関係を、実務運営を私が具体化していきました。ですからもともと一二三会は、従業員の福利厚生団体というよりは、従業員の財産形成に寄与するということで設立された経緯があります。 それと、前年の杁中三洋堂と三洋堂書店の分離ですが、このとき初めて杁中がとれて三洋堂書店になりました。ですがこの頃、三洋堂というと一社長の兄、紅方さんが経営されている池下三洋堂と弟、海平さんが経営されている小幡三洋堂があって、三洋堂イコ-ル長兄の池下三洋堂というイメ-ジだった。ここで杁中をとって、三洋堂書店と社名を変更すると池下や小幡に対して、三洋堂書店が三洋堂全体の本部みたいでまずいのではと、ずいぶん一社長もまさ子専務もお気を使われました。この時、日販名古屋支店の朝礼でこのことを発表していただいたら、職員の方が、へぇ池下と杁中は違う会社だったのかって。長年お取引のあった日販さんでもその程度の認識でした。

ちょうどいいタイミングで杁中店も300坪に大きくされた。

会社を営業会社と資産会社に分離する。本部を別にする。本店を大きくする。この頃、一社長が言っておられた1000坪の本屋をつくるんだという夢に向けて、社員の士気が盛り上っていました。杁中店をつくるにあたって出版社様の応援もいただき、三洋堂書店という名前も知名度がグンとあがりました。

その頃、加藤憲様との本格的なお付き合いが始まっています。

営業会社と資産会社の分離で、営業会社の運営のほうは社員に任せると。そうはいっても、たんに資産会社と営業会社に分離したからといって、すぐに営業会社が黒字になるわけでもない。そこでもっと売上をつくれる、荒利を稼げる商品はないかということで、本格的な文具の取扱いを始めました。渡辺先生がもっと荒利を稼ごうと、それまでの文具問屋から名古屋で一番の加藤憲に話をもっていった。加藤憲も加藤順造社長はじめ、ご担当いただいた荒谷武保さん、遠山暁さんに、本当に熱心にご指導いただいて、文具が三洋堂の主力商品になるまで育てていただいた。そのご縁で加藤宏が大学を卒業後、加藤憲へ修行に行かせていただいたり、加藤順造社長に仲人をしていただいたり、公私にわたる深いお付き合いさをさせていただきました。

加藤宏は加藤憲に2年ほど勤めた。

そうです。加藤宏の文具好きはこのときからではないでしょうか。若林店に凝った文具棚を作った。「ペンの新製品が出るとつい買っちゃって、家中ペンだらけなんだよ」とか、よく楽しそうに言っていました。

1974年の勝川店を皮きりに、4年間で5店舗を出店し、1977年には年商も5億円を突破した。この間、名古屋市では地下鉄東山線に続き名城線が開通し、栄や名古屋駅にはあらたな地下街が誕生し、多くの専門店が軒を並べた。
更に地下鉄鶴舞線の工事も急ピッチで進み、1978年10月には八事と赤池の間が開通する予定であった。これが開通すれば杁中地区も栄や名古屋と直結することになる。人の動きも大きく変わり、地下街の専門店との競争になるなど、外部環境が大きく変化することが予想された。

販売週報というのもその頃ですね。

販売週報に本格的に取組み出したのは1978年頃でしょうか。地下街に日進堂さんや鎌倉文庫さんがどんどん出店されている。三洋堂も三洋堂書店になった。本店もできた。でもやっぱりベストセラ-とか新刊は入ってこなかった。朝日新聞社にお願いにあがったら、けんもほろろで、「海のものとも山のものともわからない書店に商品を出せるか」って。とっても悔しい思いもしたし、一方で納得もしました。このときはっきり言っていただいた朝日新聞社には本当に感謝しています。 そこで菱野店の藤谷社長と、日販の井上捷二さんに相談したら、まずデ-タなんだと。売れてるから商品をよこせではなく、「これだけ入荷してこれだけ売れてる。あとこれだけ売る自信がある。だからこれだけ欲しい」といった販売状況がわかるものを出版社は求めているから、それを作ったらということで、販売週報を定期送付するようになりました。
週報をつくる時期になると、家に売上スリップを持って帰って集計と販売分析。大変でしたけど楽しかった。週報を自分で作ってみて、初めてそれまで売れた売れてないといった言い方がいかにいい加減かわかりましたし、そんないい加減なことでお互い成り立っているこの業界がほんとにおかしいということに気がつきました。売れてる売れてないって“感じ”なんですよね。発注数も入荷しないことを前提に水増し発注するし。それで本当に欲しい数だけ発注すると、新潮社の前田雄作さんから、「こんなに正直に発注数を書いていたら商品は入ってこないよ」って、親切な助言をいただいたこともあります。でも、「いやうちはウソの発注はしなんです。本当に欲しい数だけ発注しますから満数出荷してください」ってお願いし続けました。そんな姿勢が理解されるのに10年近くかかりました。
そういった経験があって、いまPOSデ-タの無償提供とか、数字に裏打ちされた発注とか、仕入に対する厳しさが、会社の風土として根付いているのではないでしょうか。いい加減な発注、曖昧な物言いには心底腹がたつ。手書きの週報は、本部を移転してスリップリ-ダ-を導入する1992年まで続けました。

2.多店舗展開とトーハンとの取引開始 1981年~1983年

パソコン事業部もこの頃、1981年頃ですか。

パソコン事業部というよりこれは高橋俊明さん(現東海パソコン情報サービス社長)の趣味と実益がこうじて。高橋さんは商売っけのある方で、刈谷店の店長の時、パソコンの最初のブ-ムがあって、刈谷という立地もありコンピュ-タ関連書がすごく売れた。1冊100円200円の雑誌コミックを売っているより、単価の高いコンピュ-タ書を売って儲けたいと。そこでコンピュ-タ書の専門店をつくりたい、絶対採算はあわせると一社長、まさ子専務を説得したんです。最初は旧本店、いまの社宅ドエルがあるところですが、そこでスタ-トして売れなくて。とうとう自分で大須にお店を探してこられた。社員が出店先を自分で見つけてきてそこに出店したのは、これがはじめてというより最初で最後。社長、専務も、「高橋君そこまで言うのならやってみたら」ということで。ただこれまでの書店形態とは違うから事業部でということになったんです。 
そして当時のことで印象深いのは、一社長、まさ子専務が率先してマイコン教室に通われたことです。これからはコンピュ-タの時代だ、まず私たちがわかっていないとということで、たしか大阪まで何回も通われたように記憶しています。そこそこのお年なのに、柔軟性があってすごいなと思いました。

1970年代後半から1980年代にかけて、マイクロ・エレクトロニクス産業は急速に発展した。コンピュータの販売高は毎年2倍、3倍と増大していき、会社や家庭にまでコンピュータ化の波が押し寄せようとしていた。

そして1982年に小牧店、多治見店の出店がありますが。

私にとって、一番思い出があるのが小牧店です。小牧店は初めて店長として行き、自分でつくった店だからです。開店の前日に急遽地元との調整で壁面の棚を全部動かしたり、突然文具売場を撤去したり、大変な思いをしてつくりました。ですから、このあと数多く開店を手がけますが、多少のことでは動じなくなりました。 実は入社2年目で刈谷店をつくるとき、一社長に付ききりで棚とか商品構成とかを教えてもらいました。それで、小牧店は全部三好君にまかせるから、レイアウト、商品構成、採用など自分のやりたいようにやりなさいと言われて。まさ子専務からは、「三好君はやんちゃで人の言うことは何にも聞かないから、全部思い通り自分でやってみなさい」と励ましを言われました。
小牧店の開店で、川崎木工の川崎欽也専務、昭文社の中川邦博さんとのお付き合いが始まりました。1ヶ月遅れで多治見店が開店。店長が大脇章信さん。

このあと90坪タイプが標準タイプになっていくようですね。

標準店というのはあまり意識していませんでした。当時出店規制があって、物販で90坪という売場面積がひとつの上限だった。そこで限度いっぱいの大きな店をつくったわけです。結果それが地域一番店だった。地域一番店というのが、圧倒的に勝てるのだと一社長がさかんに言っておられた。一社長はそういったことを商業界のセミナ-や川崎先生から学ばれた。川崎進一先生には、一社長、まさ子専務ともずいぶん教えていただいたようで、この頃、商業界と川崎先生のお名前は何度もお聞きしました。商業界のセミナ-に参加されて、講義のテ-プをとってこられ、一社長は自分が学ばれていいことは、どんどん社員にも学ばせようと、我々も教育していただきました。「学ぶ」、「任せる」。今の幹部クラスは、一社長のこういった教育で成長していったのではないでしょうか。

トーハン様とのお付き合いは1983年に開店した野立店からですか。

そうです。野立店でお取引が始まりました。当時のトーハン小牧はデ-タ管理をしっかりやってみえた。トーハンとお取引のない頃から、一社長にはトーハン小牧につれていってもらい、当時のトーハン小牧の所長だった稲葉久男さんからデ-タに基づいた商品管理のお話をお聞きしました。そこでぜひトーハンともお付き合いをして、ということでまずFC用として考えていた野立店からお取引が始まった。そして上前津店はコンピュ-タの専門書店だし、これまでの直営とは毛色が違うからということで、上前津店もトーハンさんとのお取引となった。当時、トーハン小牧のコンピュ-タ書のご担当が早川正孝さんでした。野立店と上前津店2店のお取引でしたが、稲葉久男さんも、早川正孝さんもとっても力をいれてくださった。
 
3.岐阜県東濃地区への出店と異業種提携 1984年~1986年

この頃から出店が続きます。

1982年の小牧店、多治見店に続き、84年可児店、美濃加茂店、85年関店、86年瑞浪店、若林店と90坪型店を開店しています。意識して多店舗展開していくというのはこの頃からで、開店のレイアウト、商品手配、採用から軌道のせの教育まで、いまの開店マネジャ-、棚割マネジャ-を一人でやっていました。楽しかったです。でも独立採算制度ですから、新店はほとんどボ-ナスはなし。まさ子専務からは、「人より楽しい仕事をしているのだから我慢しなさい」とかあとの頃には「人の上に立てばたつほど身辺はきれいにしておきなさい」「上になればなるほど果実は皆のあとで自分に回ってくるのだと思いなさい」とか、幹部としての心構えのようなものをお聞きしました。
これだけ店を一人でつくっていきますと、自然発生的に店が標準化していく。当時は標準化という言葉は使いませんでしたが、開店、運営のパタ-ン化というのはずいぶん考えました。運営という言葉は和裕さんから教わりました。

和裕さんとは1984年、ラグタイム1号店の可児店の頃からですか。

そうです。可児店はとっても豪華なメンバ-で、1階の店長が私で、2階のラグタイムの店長が和裕さんで開店し、その後、加藤憲の修行からもどられた宏さんが、店長見習ということで可児店に配属になり、いっしょに仕事することになった。 ワ-クスケジュ-ルという、このあとチェ-ン展開していく店舗運営のツ-ルを最初に持ち込まれたのが和裕さんでした。和裕さんが「レストランではこんなものを使っているよ。書店でも使ってみたら?」といって紹介されたのがいまのワ-クスケジュ-ル表の原型です。それまでやたら社員の残業に頼ってお店を運営していましたが、これによって作業コントロ-ル、時間コントロ-ル、パ-ト・アルバイトへの作業割り当てがあることを教わりました。 
これが全店普及するのは、和裕さんが書店へ入社され、しばらくたった91年頃からになります。関店も和裕さんといっしょに開店しました。関店も1階が書店、2階がラグタイム。可児店、関店の頃は、社員はみんな独身だったので、お店が終わると毎週1回ミ-ティングと称してラグタイムで夕食会をしました。和裕さん自ら料理をつくっていただいたり、飲み物をサービングしてくださいました。でも会計はきっちりしていて一切社員割引なし。いい思い出です。

                                                  

                                  ラグタイム1号店                                  社員の結婚式にて(一とまさこ)

いまの多店舗展開のマネジメントスタイルの原型はその頃からあったんですね。宏さんは可児店で実務に就かれた。

加藤憲さんの修行から戻られて店長修行ということで、最初に可児店に配属になりました。昼間は黙々と作業をこなされ、夜は可児店の2階の休憩室、仮眠もできる畳敷きの部屋でしたが、しょっちゅうそこで徹夜でパソコンで何かやっておられました。ほんとうに仕事熱心でした。我々もたしかに残業残業で仕事は一生懸命したつもりでしたが、宏さんは24時間仕事のこと、会社のことを考えておられた。可児店では私の部下として仕事をされていたのですが、出版社の方がみえても、社長の息子であることはおくびにもださず、でもその頃から正論は正論として背筋をピンと伸ばして堂々と主張され、出版社の方がこの若造がなにをいっているんだろうという目でみておられるのを、ひやひやしながら見ていた記憶があります。宏さんはその後、私のあと可児店の店長をされ、若林店で開店店長をされています。若林店以降の新店は、一宮、中津川、梅坪、豊川、新可児、本新店頃まで、しばらく宏さんが設計、レイアウトされた店です。設計工房アクトの横山悟さんとのおつきあいもこの頃です。