1.レンタルへの取組みと大卒の本格採用開始 1987年~1988年

レンタルへの取組みは1987年頃からですね。

最初はC.C.CのFCとしてスタ-トしました。C.C.Cの増田社長に店長会議の時に講演にきていただいたこともありました。C.C.Cでのレンタル出店は多治見店、刈谷店、本店の2階の3店で、後は自前のシステムで出店することになりました。当時のC.C.Cでは支店間でレンタル商品を移動できなくて、チェ-ン店のメリットがだせない。だから自前でやるようになりました。それに、もともと三洋堂はなんでも自前でやるのが好きでしたから。自前主義はコ-ポレ-ト・カルチャ-なんでしょうね。だから人も育ってきたのかもわかりません。
可児店と関店でのレストランとの複合、多治見店、刈谷店、本店2階でのレンタル、一宮店でのレンタル、中津川店でのビリヤ-ド。いろいろ書店との複合を試みました。というより将来の大型化に備えて大きな店舗を最初から用意しておく。ついては物販で90坪という規制があるので、物販以外で書店との複合でマッチするものはないのか、ということでレンタルとかレストランとかを併設していった。朝倉潤真さんがやっておられた学習塾もその一つです。そういう意味では、三洋堂は本を基軸としながらも商売のあり方としてはもともと柔軟性のある会社でしたね。

これだけ出店して人材のほうは大丈夫だったのですか。

バブルの頃で年々人材の確保が先細りになってきて、でも出店はする。そうすると出店はしても人はいないわけですから、既存店から抜くだけです。補充はなし。会社も若かったし我々も若かったからがんばれた。

                                     

                              上棟式(中津川)                     ペガサス・アメリカセミナーにて(一とまさこ)

でもそれでは先がないと、大卒の大量採用になった。

というか本当に人が足りなくなってきた。従来の採用方法では数人しか採用できなくなってきていた。採用媒体をつかった採用方法についてリクル-トが営業をかけてきていた。でもすごく高かったんです。それまでの採用費は大学に求人票を送るだけですからほとんど経費はゼロです。それで、その時まさ子専務が、「三好君に全部まかせるからやってみてよ」って言われて。見積もりで2000万円でした。あとで調べたら当時の経常利益が1479万円でした。ぞっとしました。1年間の採用活動で、結果がでるのが来年の4月。三好君でだめなら誰がやってもダメだろうから、失敗したら2000万円どぶに捨てたつもりになるからいいよって。ほんとうに怖かったです。
結果、32名内定をだして29名きてくれました。それが88年組。いま中堅幹部として、三洋堂の実務実行を支えてくれているメンバ-です。当時の社員数が60名で、一挙に29名採用したわけですから、それもまた無茶だったような気もします。今の採用方法の原型はすべてここでつくりました。リクル-トの担当の井上さんに、本当に熱心に教えていただいた。初めて本格的な会社説明会を開催するときには、つきっきりで教えてくださった。
そういった方々の応援があって、三洋堂は採用に限らず、このあともどんどん自前でノウハウを蓄積していけたのではないかと思います。自分ひとりで大きくなってきわけではけっしてない。一社長、まさ子専務からことあるごとに、そんなお話しもお聞きしました。若い集団だっただけに、増長することを、心から心配されていたようです。

日本ではじめてレコードレンタル店が東京に開店したのは1980年であった。その後、たった一年で全国に1000店が誕生した。一方、ビデオレンタル店も全国に広がっていき、レンタルという新しい業態は徐々に市民権を獲得していった。

2.三洋堂書店創立30周年と中期経営計画の策定 1989年~1990年

さて1989年に中期経営計画が策定されていますが、これはどういった経緯でつくられたのでしょう。

本質的には宏さんが三洋堂書店に入社された、和裕さんも本格的に三洋堂書店に関わりだされた。そろそろ世代交代の準備に入りだしたということです。

もうこの頃から準備されていたということですか。

そうです。創業オ-ナ-から2世への交代は、よほど準備しておかないと社内外が混乱する恐れがある。それを専務がとっても心配されていました。その前から専務からは、うまく引き継ぎをしなければということを再々お聞きしていました。世の中では創業トップから2世への引継ぎでよく失敗する、特に社内的に混乱することがある。私たちは序々に身をひいて、スム-スに宏に引き継がなければ。あなたがキ-マンなんだから、三好君よろしく頼むね、と。
ちょうどその頃、日販のセミナ-で、和裕さんとマネジメント・フリー・アカデミーの牛迫先生との出会いがあって、牛迫先生に経営理念と中期経営計画の作成をお願いすることになりました。中計の策定にあたっては、宏さん、和裕さん主導で策定にあたりました。こういったことは和裕さんの得意中の得意だということがこれでわかりました。中計策定のねらいは、創業社長以来の三洋堂の価値観とビジョンを文章化し明確にしていくことがねらいでした。社長の交代があっても過去はきっちり踏まえて、そして前進していく。その過程で三洋堂の次に進んでいく方向をだんだんはっきりさせていく。

次に進んでいく方向、といいますと。

それまで三洋堂書店のマネジメントスタイルというのは支店独立採算制度でした。各支店が各々支店経営として、支店の収支のなかで利益の配分もおこなう、簡単に言ってしまえば、支店で儲かった分は支店で配分しようと。ですから店長は自分のボ-ナスは自分で決める。ところが、この支店収入制度が、レンタルの導入によって崩れてきていた。つまりレンタルの場合、書店部門と違って、売上予測も、粗利益率も大きく変動することが多かった。そのため一定程度、条件が平等だからこそなりたっていた支店収入制度が、レンタルの導入によって、平等性が保たれなくなってきていました。あわせて89年の新可児店が店舗数で20店舗目。FCもありますので実際はもうすこし少ないですが、この20店舗前後というのはやはり支店経営の管理のひとつの節目になる店舗数です。ところがじゃあどうやって管理していくのかはまだ全然見えてこなかった。支店収入制度をやめたあとどうするか。ですからちょうどこの89年の三洋堂創立30周年、90年の中計策定、そして組織としての店舗運営部の設立というのは、三洋堂書店の経営にとって、とってもエポックメイキングなことなんです。世代交代への心構えと、中計の策定による経営理念の明文化、新しい組織体制への模索、新しいマネジメントスタイルへの取組みがはじまったのがこの頃です。和裕さんの三洋堂への本格的な関わりが始まった時です。

あたらしいマネジメントスタイルへの取組みというのは、具体的はどういったことだったのでしょうか。

1989年日販マネジメントセミナ-でJRCの渥美先生の講演があり、これを聞いてきた宏社長が大変感銘をうけて帰ってきた。三洋堂書店の無医村地区発想、全国津々浦々にまっとうな本屋をといった、三洋堂のビジョンの達成に合致するマネジメントには、渥美先生率いるペガサスのチェ-ンストア理論がいい。JRCのセミナ-へ大量に幹部を参加させたのはこの時です。私など1ヶ月に20日近く研修へいっていました。ほとんどの研修が2泊3日なので研修の連チャン。年間の私個人の交通費、宿泊費を含む研修費用も200万円近く使っていただいた。あらためて三洋堂はなんという会社だろうかと思った。
ほんとうに教育、人を育てるということにお金をいとわない。毎日毎日、研修でへとへとでしたけれど、とっても充実していたし、自分が成長していく実感というか、つくづく自分は幸せな会社へ入社したと、そのときは思いました。それで、支店収入制度ではなくチェ-ンス
トア理論で我々は進むんだと、だんだん方向性が見えてきた。